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  • 藤井 健輔、木下 晴

中間貯蔵施設に家と田畑の売却を強いられた被災者の苦渋

 福島県内の放射能除染で出た土壌や廃棄物を運び込む貯蔵施設のために、新築の自宅と先祖伝来の田畑を国に売らざるを得なかった。福島第一原発の事故で10年を超える避難生活を強いられている上に、そんな苦渋の決断まで国家によって求められた被災者が2022年9月22日、上智大学文学部新聞学科の学生たちの取材に応じた。

杤久保幸隆さん=2022年9月22日、福島県楢葉町北田の「みんなの交流館ならはCANvas」で
杤久保幸隆さん=2022年9月22日、福島県楢葉町北田の「みんなの交流館ならはCANvas」で

 杤久保(とちくぼ)幸隆さん(72)が生まれ育った福島県双葉郡大熊町小入野の土地は今、環境省の中間貯蔵施設となっている。  「私の住んでいるところは、原発からだいたい3キロ圏内にあります。太平洋からはだいたい1キロで、42戸ほどの小さな行政区なんですけど、津波の被害にあわれたかたもおります」


 幸隆さんは学生たちを前にこう話し始めた。


 先祖代々の農家の長男に生まれた。「長男はもう 農家を継ぐもの」。高校を卒業してすぐに農業に従事した。


 そのころ、家のすぐ北の大熊町と双葉町にまたがる海岸線で、福島原子力発電所の建設が進んでいた。71年に1号機の運転が始まった。それまでは「産業が何もない、貧しい村で、出稼ぎにいかなければならなかった」というが、町民の多くは「原発景気」の恩恵を受けた。幸隆さん自身、2号機の建設現場で働いた。原発について危険な存在であるという認識はなかった。「二重三重の安全対策をしているので、事故は起きない」と聞かされていた。


 「だいたい農業で生きていく形でいたんですが、実際には農家の専業だけでは食べていけないという時代になった」。幸隆さんは26歳のころ、タクシー運転手としても働き始めた。関連企業に勤める人々を原発まで送り届けた。


 2011年3月11日午後、そのときも、福島第一原発の正門を入ってすぐにある東芝の事務所で客を乗せ、南の富岡町方面を目指して、1キロほど車を走らせたところだった。大きな揺れに襲われて、車を運転することができない状態になった。揺れが収まるまで道路脇に車を停めて待機した。客は原発の技術者らしく、「心配だから戻る」と言う。来た道を福島第一原発に戻った。正門の手前が陥没しており、客にはそこで降りてもらわざるを得なかった。


 年老いた母が心配で、幸隆さんはそのまま自宅へタクシーを走らせた。家の中は食器棚から何から何まで「ひどい状況」だったが、幸いにも母は怪我をせず、ただ呆然と立ちすくんでいた。区長の連絡で、近くの公民館に母を連れて避難した。


 よもや津波がすぐ近所まで及ぶとはまったく頭になかった。「ものすごい津波が来たんだべ」と言われて津波の来襲を知ったのは、公民館でのことだった。様子を見に行くと、ガレキが路上にあって、跡形もなくなっているような状態だった。「津波にあわなくてよかった」と思った。


 町から中学校に避難するようにとの連絡があり、母を連れて中学校へ向かい、一夜を過ごした。


 大熊町の南、広野町の火力発電所で働いていた妻と連絡が取れていなかった。津波の被害もあり、心配したが、深夜、合流できた。


 早朝、中学校に東京電力の車が入ってきた。「これからバスが来ますんで、そのバスに乗って直ちに西側のほうに避難してください」と言われた。原発で問題が起きたのだとそこで初めて気が付いた。年老いた母がいるため、バスでの避難は難しい。いったん家に戻って貴重品を取ってこようかと思ったが、2~3日のことだろうと考え、そのまま西に向かって車を走らせた。


 実際には2~3日では済まなかった。福島県の内陸部・中通りにある三春町に住む姉のもとで1週間お世話になり、そのあとは埼玉へ行くことになった。

 埼玉に避難してから2週間ほどが経過したとき、「規制があって自宅に入ることができなくなる」という連絡があった。福島第一原発の周囲20キロは警戒区域に設定され、出入りはより厳格に制限されることになった。

 震災発生直後、着の身着のままで避難していたため、貴重品を取りに大熊町の自宅へ向かった。何よりも心配だったのは、避難時に置いていったペット、なかでも犬のタローのことだった。

 

1カ月ぶりの自宅で


 タローは、リールにつながれたままの状態で、雨どいの水槽に農機具の廃油と一緒に入っていた水を飲んで生き延びていた。痩せこけていたが、意外と元気そうに見えた。


 軽トラックに必要なものを積み込み終えると、タローが乗れるスペースはもう残っていなかった。


 「なんとか生きてもらいたいなと思って、とりあえず放せば何とかなると思って…そのときは放した」


 リールを解いて、タローを自由にした。


 車に乗り込んで発進すると、サイドミラーにタローが映った。しばらく車を走らせてもタローの姿は小さくならない。タローは幸隆さんを追いかけてきていた。


 「サイドミラーで見ていると、その姿がだんだん近づいてきて私の左のドアにぶつかってきて……それを振り切ってアクセルを踏みました…。本当に申し訳ない…本当に辛かったです」


 学生たちの前で幸隆さんは声を震わせ、泣いていた。


 タローを置いてきたその傷は、12年近くの歳月を経ても癒えていなかった。「一生忘れないと、今でも思っています」


 幸隆さんの言葉の語尾は消え入るようだった。


 避難生活を続けながら幸隆さんはタローを探そうと手を尽くした。インターネットで検索したり、似ている犬がいると聞いたときは他県にまで行ったりした。でもタローと再び会えることはなかった。


 「後悔してます。というのは(飼い主の代わりにペットを)助けてくれた団体があったんですよね。それはあとで聞いたんですけど。私もまずかったなと思いました」


 震災前、福島第一原発の20キロ圏内には6千匹弱のペットがいたという。しかし避難所に飼い主と一緒に来たペットは、福島県全体で犬猫合わせて約千匹。多くの人がペットとの一時的な、あるいは永遠の別れを経験した。幸隆さんが住んでいた小入野という行政区内にも、幸隆さんと同様にリールを外してペットを置いてきた人がいたという。

福島第一原発(奥)と中間貯蔵施設(手前)=2022年9月22日、福島県大熊町で、奥山俊宏撮影
福島第一原発(奥)と中間貯蔵施設(手前)=2022年9月22日、福島県大熊町で、奥山俊宏撮影

 2014年、未だ立ち入ることのできなかった大熊町、双葉町に中間貯蔵施設が設けられるという話が舞い込んできた。福島県内の除染に伴って発生した土壌や廃棄物等を集める施設だ。


 説明会が行われたが、既に国や県は大熊町への建設を決めているようだった。地権者の声を聞かずに受け入れの話が進められていた。「我々地権者が置き去りにされた」ように感じた。


 最初は土地の提供を断った。


 だが、県内各地に汚染された土壌の仮置き場が多数存在することを新聞の報道で知り、時間がたつにつれて、考え込んだ。「実際、反対していて、果たして福島県が本当に早めに復興できるのか」


 汚染土壌があちこちにあっては、それら各地の復興は進まない。他方、ほかの県で汚染土壌を受け入れてくれるかというと、そういうことにはならないだろう、と思った。


 「本来だったら同意はしたくなかったんですけど、福島県のことを考えれば……」


 協力しないとまずいのかなと徐々に強く感じてくるようになった。


 中間貯蔵施設への土地の提供を決意したもう一つの理由は、福島第一原発の三つの原子炉の現状への懸念だった。


 「原発の溶け落ちた燃料デブリ、回収するまで果たして何年かかるか、これから何百年かかるか、本当に手探りの状態だと思います。原発のことは詳しくは分かりませんが、そういうなかで果たして生活していけるのか。中間貯蔵は30年後(に終わって元に戻す)と(国は)言っていますが、そのとき私は生きてないと思います。次の世代の若い人が果たして、自分が住んでいたところに戻って生活していけるか、そういうことを考えたときに、そういうことを考えたときから、中間貯蔵に協力して、少しでも早めに復興していただいたらいいのかなと、あきらめてはないですが、そういうふうな考えに至った次第です」


 生まれ育った土地で、先祖が残してきた土地でもある。受け継いできた先祖のことを思うと、手放すことには悔しさがあった。だが、少しでも早く復興し、若い世代の人々が、自分達の故郷に帰ることができるようになってほしい。中間貯蔵施設事業に協力することを決めた。


 震災発生6年前に新築したばかりの居宅と先祖伝来の田畑を2017年5月に環境省に売却した。

中間貯蔵施設=2022年9月22日、福島県大熊町で、奥山俊宏撮影
中間貯蔵施設=2022年9月22日、福島県大熊町で、奥山俊宏撮影

 現在は大熊町から南へ60キロ、いわき市南部に住んでいる。


 「できるだけ大熊の近くに住みたい」


 故郷を思う気持ちは変わらない。


 大熊町にいたころのことをふと夢の中に見ることがある。田植えや稲刈り、そんな農作業をしている自分がそこにいる。今の現実ではかなわない夢だ。


 「それだけ大熊に対する思いは今も変わりないです」


 住民票は引き続き大熊町に置いている。


 2015年に使用が開始された中間貯蔵施設は、開始後30年以内に同施設から全ての廃棄物を搬出し、福島県外で最終処分を完了する約束となっている。つまり、幸隆さんの故郷が戻ってくるのは、20年以上先の2045年のこととなる。


(この原稿のうち、杤久保幸隆さんに関する記述は藤井健輔(4年生)、そのうちタローに関する記述は木下晴(3年生)が担当した。)


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